jeudi, février 28, 2013

「愛」の訳しかた

生徒が "I love you."を「我、きみを愛す」と訳し、
夏目先生は「月が綺麗ですね」でいい、それで充分伝わる。
・・・と、いったそうな。。(ほんとかどうかわからないが)
それで、果たして相手に「愛」が伝わるのだろうか。


「愛」はかたちない。


夏目漱石(出典:ウィキメディア・コモンズ)

変容する。
また、時代によって変遷するもの。。
・・・なのでしょうか。

だから古い時代に訳された「I LOVE YOU」がどんな訳され方をしていようとそれはおかしくはないことなのだろうけど、そこには時代とは関係ない「人」の思い込みが大いに反映されているらしいことを思う。オンラインで繋がった遠くの人とのやり取りのなかで、それが引っかかっているというコメントに激しく同意した。

これは恋人同士であっても、友達同士であっても、家族であっても、訳し方が違えばその関係が危うくなることと同義に思えてきた。

ある人を愛して、そしていまもその愛は信じているけれど、
いまその人と繋がれないということはその「訳」の違いが
あるからかもしれないと思った。

今日、「りえちゃんは相手を考えすぎて親身になりすぎる。近くに寄せて考えすぎるから、(それがいいところでもあるけど)心配しすぎも良くないよ。大丈夫(云々)・・・」(と、言われ、そうかそれで失敗することが多いのだなと)納得をしたところ、心配は心配を呼んで心の体力を落とすから、やっぱり、もうやめようと心のなかで反芻した。

実際にそうなって大いに反省したこともある。
もう二度とそんな思いをしたくはない。
そして、相手にもそうなって欲しくない。
どんなに相手に“重さ”をもたらすか、と思うとただ申し訳ない気持ちにもなる。
そのときのわたしはそうやって「愛」を重く受け止めていたのかもしれない。
だから、そこから変わったのだと思う。変われたのだと思う。

「愛」は、変容する。

これから先に思うことや、考えることや、行動することは、おそらくそうではなくなるんだろう。
なぜか、このごろのわたしの躯からはいろいろなものが剥げ落ちていって、
それが蝉や蛇みたいに、気持ちよく脱げて行く・・・そんな感覚。

「愛」の訳しかたが、わたしのなかで大きく変わったのかもしれない。

目の前に愛する対象が居なくても、手が届かなくても同じように「愛」を見つめ、
落ち着いて考えることができるような、そんなひき潮の凪のなかに立っている感覚。

ほんとうに「愛した」という実感のあるものだけが訳せる愛も、あるのではないだろうか。

「月が綺麗ですね」と、漱石さんに教えられたとおりに言わないけれど、
その距離感と解釈は、今のわたしならできるような気がしている。





==========〈ライブ情報〉============


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