samedi, avril 21, 2012

「KOTOKO」きみもきみもきみもきみもきみもきみも・・・そして、つづく

初日に観に行くというのはなんと気持ちのよいことか!
4月に入ってから映画を二本続けて観に行きました。
KOTOKO」、「アーティスト」 。(どちらもすっごい良かった!)
実は両方とも、以前から気になっておりましたが同時の公開日で、困ったなあと思っておりましたが、やっぱり敬愛する塚本晋也監督の映画「KOTOKO」を観に・・・

塚本さんとは映画「119(竹中直人監督作品)」で共演させて頂いたことがありますが、それ以来お会いしておりませんでした。塚本さんの男性的なカンが好きです。
というと、誤解されてしまいそうですが、大らかさと繊細さのバランスに魅力を感じます。
映画「KOTOKO」には、その塚本さんらしさが満ち満ちているように感じました。
太陽の中で、影が黒々と生きているかのように動いている。
暗闇の中で、光や火が生々しく輝く。
その両極を、映画の中に見る度に「ニンゲンである」ことを意識せざるを得ない、逃げられない叫びを自分の中に覚えました。

わたしの声は、誰かに届くだろうか?
声が音になって生まれなければ、
誰の耳にも心にも、
届かないのではないだろうか?

身近な人の自殺未遂、自殺、そして自分の「死にたい」「居なくなりたい」欲望を、
わたしは知っています。痛み、苦しみ、自分で這い上がったことも、あります。
そのとき、こんな映画と出合うことを、わたしは「ラッキーだな」と思えます。
失う前に立ち止まること。失う前に発見できること。失う前に客観できること。

生きることを確かめることは、日々、容易ではない。
ほんとうはわかっている「今が十分幸せであること」を、きみは置き去りにして、
新鮮で、面白い何かを求めている。

ある日、落ち込んでいたとき、
「毎日が新しいと思えない、腐った脳みそで、明日を楽しみに・・・(自作、マグネットより)」と、わたしに友だちがメールしてきた。
わたしが9月に行ったイベントで読んだ詩を、わたしに書いてきたのだった。
彼女はわたしに客観させた。

琴子は、いま、どうしているだろうか?
子どもが居て、彼女はしあわせだと、わたしからみたら思う。

しあわせは、共有できるものにもなり得るけれど、共有できないものでもある。
わたしが感じるしあわせは、どこにあるのか、きみも、きみも、きみも、きみも・・・
わからないだろうと思う。
そして、きみも、きみも、きみも・・・しあわせと仲良くしなければならない。